Tsukasa Theater

脚本家/役者・近藤司のブログ

アメリカの社交辞令と信用

アメリカでは(少なくとも俺が住んだことのあるNYとオハイオでは)子どもも大人も見知らぬ人とよく挨拶をし、世間話をします。全く知らない人同士が道を擦れ違う時に目が合ってしまったらニコリと笑う人もいます。俺も中学生でオハイオに最初に来た時は擦れ違う人が挨拶をし、笑いかけてくるのでついに人生に3回くるというモテ期が来たのかと思いましたが、すぐにどうも違うことだと気付きました。

特にNYのような文化的に多様な場所においては日常の挨拶や社交辞令は、社会が上手く回って行くための基盤として機能しているように思います。全くバックグランドの分からない人たちと毎日生活や仕事を共有するために、「見ず知らずの他人同士でもコミュニケーションはできる」という前提は重要な社会インフラになっているのです。
「見ず知らずの他人同士でもコミュニケーションはできる」というのは日本でも原理的には成り立っていますが、果たしてそれが実行されているかというとそんなことはないと思います。

スーパーで買い物していていきなり隣の人に「あら私もそのジュース好きなのよ。ついつい飲んじゃうのよね」と話しかけられたら日本だと割とびっくりしてしまうんじゃないでしょうか。何百人も学生がいる学校の廊下で擦れ違った学生に「ハイ」と言われたらこっちに気があるのかな(もしくはサークルの勧誘かな)とか思ってしまうでしょう。アメリカではこういったことは日常で何気なく多くの人がしています。

また、それと関連があるのか分かりませんが、アメリカ人は社交辞令を良く言います。パフォーマンスを見た後はとにかく手放しで褒めます。新しい人と会った時は「今度うちにおいでよ/遊ぼうよ」と気軽に言ってきます。最初のうちは全部本気にしてしまって

「来週映画観に行こう(仕事のスケジュールが決まったらこっちからテキストするよ)って言ってたけどまだ連絡こないな。。」とか思っていたけれど、最近はようやく彼らの本音と建前の違いがわかるようになってきました。(とは言え社交辞令が良い方向に転ぶこともあるけれど)

ジャパンツアーの交渉を日本側やアメリカ側とやっていて、気付いたのですが、日本人の場合は「じゃあやりましょう」という口約束がかなり信頼できるのに対し、アメリカ人の場合は「面白そう!一緒にやるやる!」と多くの人が言ってくれるかわりに実際に何か協力をしてもらうためにはこちらからかなり積極的に引き続きアプローチする必要があります。また、アプローチの過程で様々な理由で断られます。

ただこのアメリカ人のアプローチは「可能性を最大限に抱えたままで実際の状況を見て最終判断をする」という点ではとても合理的だと思います。日本の口約束に対してアメリカは契約社会だと言われますが、こういった所にもその一端が現れていると思います。

経済学者の池田信夫のブログに、関連した面白いエントリがあったのでリンクしておきます。
池田信夫 blog 「安心ネットワークと信頼ネットワーク」
ここではFacebookの"friend"の数が日本人のアカウントは軒並み1桁〜2桁なのに対し、アメリカ人のアカウントは3桁や4桁も珍しくないという現象から、日本的なネットワークと欧米的なネットワークについて書いています。面白い。

とは言うものの

アメリカでは「嘘」というものに対する罪の意識が日本文化に比べてとても重いことにも驚かされます。これもこっちに来て最初のうちは「なんだよあんだけ社交辞令言う癖に、liar(嘘つき)ってことには敏感なんだな。」と困惑していました。

思うに、池田信夫のエントリに書かれている信頼ネットワークにおいては、「言葉に嘘がない」というのはその社会において成熟市民の資格となっているのかもしれません。誰とでもコミュニケーションを取りますよ という態度で皆が嘘をついていたら社会が成り立たないですよね。また、嘘はsin(=宗教的にも罪)ともされているのは興味深いです。

日本文化だと「嘘つきは泥棒のはじまり」という言葉がありますが、嘘をつくこと自体が人間として非倫理的だと強く言われることは少ないような気がします。というか、嘘付きはなぜ泥棒のはじまりなのか今気になってきました。