Tsukasa Theater

脚本家/役者・近藤司のブログ

日本人コミュニティと日本語、そして「世間」について

マンハッタンには韓国人街もあれば中国人街もある。しかし日本人街と言われて思いつくのはイーストビレッジに並ぶ日系レストランや飲み屋だろうか。クイーンズのアストリアという地域には居住地としてギリシャ人のコミュニティがあり、フラッシングには中国人、韓国人のコミュニティがある。

しかし、日本人のコミュニティというのはあまり大きいものはない。これは、よく話題になるし色んな理由があると思う。一つは深刻な移民の必要性がないという経済的な理由。これは大きいと思う。母国での生活に望みがないものが親族を頼りに渡米してくるのと、遊びや留学で数年滞在するのとではコミュニティの重みが違うだろう。

それとは別に、「日本人は群れたがらない。/アメリカ文化に同化しようと努力する。」という指摘もよく聞く。これもなんとなく納得できる気もする。せっかくアメリカに来たんだから日本人とばっかりつるんでても意味がない、と思う人は多いのではないか。ただこれもどれだけ一般化できるのかは正直よく分からない。

ただ一つ分かることは日本人が集まって日本語でコミュニケーションを取ると瞬間的に「世間」が発生することである。

最近『世間の目』という佐藤直樹の本を読んで渡米してから何となく疑問に思っていたことが整理されたので書いておきたい。

この本はドイツの刑法を基盤にして議論される日本の刑法学に違和感を持った著者が阿部謹也の「世間」論に触れて色んなことが腑に落ちたというエピソードから始まる、なかなか面白い本である。日本の「世間」に関する議論のブームというのが数年前にあったらしいけれど俺自身は完全にそのブームの存在すら知らず、今アメリカに身を置いて初めて客観的に捉えようと思い始めたばかりである。

結納に対して結納返し、結婚祝いに引き出物、香典には香典返し、お中元にお歳暮、と日本文化では何かを贈ってそれに対してお返しをもらうという慣習がいたるところに見られる。どうせプラスマイナスなんだから皆で「やーめた」とできたらいいんだけど、それもできない。やめてしまうと「常識を知らない」と「世間」から追放されてしまうからである。そして「世間」というのはその中にいてそこでの義務を果たせている人にとっては居心地が良いものでも、同時に非常に排他的な性質を持つ。世間から爪弾きにされた場合、時に人権すら無視されてしまう。(そのような例は本書に多く載っているので読んでみてください)

『世間の目』では、レストランで他の人の頼むメニューを気にしてしまう日本人や、管理職の自殺、日本における多すぎる過労死、逆に他の先進国に比べて圧倒的に少ない臓器移植にいたるまで様々な”日本独自”と思われる事態を「世間」の圧力という視点で分かりやすく分析している。

「私はこれ(阿部謹也による「世間」の定義)にくわえて、「世間」を「私たち日本人が集団になったときに発生する力学」と考えておきたいと思う。これは個々人の意思とは別に、相対的に独立にあらわれる集団の意思そのもののことである。この集団的な意思は、ある種の強制力をもっている。私がこのことを強調するのは、世間学のなかに「権力」論の視点を入れておきたいからである。」

「世間」の分析に関しては本を読んでもらうことにして、俺はこの本を読んでなぜ少なくない日本人(特に一人で渡米してきた留学生)が日本人と交流するのを避けるのかが分かった気がした。実際俺自身も、極力日本語を使ってコミュニケーションをとるのを避けている。もちろん英語にもっと慣れたいからというのも大きいけれど、一番避けているのは、そう−

「世間」が発生すること なのかもしれない。

詳しくは本書に書かれているけれど、「世間」というのは上下関係をはっきりさせるものだし、日本語という言語自体話し相手との上下関係を無視して話すことはできない。対等な会話ですら「敬語を使わない」という意味で上下関係を意識した選択なのだ。相手に対して「君」と言うか「あなた」と言うか「○○先生」と言うか、敬語/謙譲語/丁寧語を使うか使わないか、それらすべての選択が話者間での「世間」の構築に役立ってしまう。

そしてこれらすべてが(特に多くの日本人英語話者はそこまで英語がうまくないことも手伝って)、英語を話すときには考えなくて良い。これは実に解放的である。

たとえば俺の友人で英語が流暢な日本人は何人かいるけれど、彼らと話す場合、いくら日本語のほうがうまくコミュニケーションを取れるとしても英語で話すほうが気が楽だったりする。(もちろん、それができる程度には俺と彼らの英語のレベルが高いということは重要だけれど)それは彼らと話すときに日本語だったら気にしないといけない要素(年齢や性別、所属や階級、に応じて敬語を使ったり一人称や二人称を変えること。)がたくさんあるからである。そしてただそれを気にして話すのが煩わしいだけでなく、それによってよくわからない力関係が生まれたり、必要のない壁ができたりするのである。それは「世間」の一部だと言って良いと思う。


ただ、なぜそれを避けたいと人々が−少なくとも俺が−思っているのかは未だよく分かりません。「世間」が無いというのは、解放的だなと思うのだけど。

世間の目

世間の目